twozzymasaの日記

徒然なるままに記す

空白の20160901~0930 ④

島津発症の地へ

 9月の志布志の朝は、何もなかった。駅に行っても人も少なく 別の世界に来たんだ。そう思った。

志布志城 シラス台地を活かした城にいった。今は学校になっていたが、山と山の間に集落が点在し、谷に道を通して難航不落を思わせた。たいして見るところもなかったので「伊作」へ行こう! 島津発症の地だ。

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鎌倉時代
源頼朝より薩摩・大隅・日向の守護職に補任された忠久は、日向の国 島津荘を領したことで島津姓を名乗る。

南北朝時代
鎌倉幕府の力が衰えて倒幕の機運が高まると、1333年(元弘3年、正慶2年)に5代・島津貞久が後醍醐天皇鎌倉幕府討幕運動に参加する。その後北朝についたり、南朝についたり、一族が分裂し分家が薩摩一国に分かれることになる。

室町時代末期
室町時代末期に入ると、領域内各地の国人や他の島津一族による闘争が加速化され、さらに薩摩大隅守護家は衰退する。やがてその島津一族の中から伊作家の伊作忠良と薩州家の島津実久が台頭して他家を圧倒した。

 

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島津 忠良(しまづ ただよし)日新斎(じっしんさい)の号で知られる。

伊作忠良ともいわれる。島津4兄弟の祖父当たる。

島津氏の分家・伊作家の出身。父・善久が明応3年(1494年)に馬丁に撲殺され、祖父・久逸も明応9年(1500年)、薩州家の内紛に関与し加世田で戦死したため、母・常盤が一時的に伊作家当主となる。忠良の母も女城主だったんです。

母常盤は、残された忠良に桂庵禅師を師とつけ、『朱子新註四書』や『論語』通じ、賢徳の聞こえが高い人間に育てる。また、忠良は禅を修め、神道の奥儀を究め、儒神仏の三教を融合して、新たに一流を開いた。

未亡人となった常盤は、南の相州家の当主と再婚し、まんまと忠良を相州、伊作の跡継ぎに仕立てた。

相州伊作の領主となった忠良は、島津本家に実子貴久を送り込んだ。この親子が北の薩州島津と争い、薩摩統一に動き出す。

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島津氏中興の祖は 教育に力を入れた
忠良は人間としての履み行うべき道を教え諭した『いろは歌』の創作でも有名だ。これは日学を広めるために、平易な歌謡によって、その精神をあらわそうとした試みで「いにしへの道を聞きても唱えへてもわが行いにせずばかひなし」に始まる歌であるが、この儒教的な心構えを基礎とした忠良の教育論は、孫の四兄弟・義久、義弘、歳久、家久にまで受け継がれることとなり、その後の薩摩独特の士風と文化の基盤を築いた。いろは歌は後の薩摩藩士の郷中教育の規範となり現代にも大きな影響を与えている。

西郷吉之助や大久保一蔵は、郷中教育、その村で近所の年上の者から町ぐるみの教育を受けた。

抜粋は以下 

武道が第一である。
武士道の本義を油断なく実践せよ
用事で咄(グループ)外の集まりに出ても、用が済めば早く帰れ、長居するな
何事も、グループ内でよく相談の上処理することが肝要である
仲間に無作法など申しかけず、古風を守れ
グループの誰であっても、他所に行って判らぬ点が出た場合には仲間とよく話し合い、落ち度の無いようにすべきである
嘘を言わない事は士道の本意である、その旨をよく守るべし
忠孝の道は大仰にするものではない。その旨心がけるべきであるが、必要なときには後れを取らぬことが武士の本質である
山坂を歩いて体を鍛えよ
髪型や、外見に凝ったりすることが二才(薩摩の若者)なのではない。万事に質実剛健、忠孝の道に背かないことが二才の第一である。この事は部外者には判らぬものである
これらはすべて厳重に守らなくてはならない。背けば二才と呼ぶ資格はなく、軍神にかけ、武運尽き果てることは疑いがない。

負けるな
弱いものいじめをするな
たとえ僅かでも女に接することも、これを口上にのぼらせることも一切許さない
金銭欲・利欲をもっとも卑しむべきこと 

永遠の0

伊作では、何もない山や寺に忠義の痕跡を発見できた。そのときLINE電話がなる。Tさんだ。「どこいるん そんなとこ なにがあんねん そやったら いっちゃんみなみな〇〇温泉 露天風呂で最高やで」

その一言で南にPCXを走らせた。知覧特攻平和会館。ここから多くの若者が特攻に散った。鹿児島にはそういった歴史もあった。

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開聞岳だ。日本百名山だ。

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Google マップ

↑ ヘルシー温泉玉手箱温泉の地図。海に向かって露天風呂が広がり、開聞岳が西にそびえて最高でした。

薩摩川内の夜 ~Tさんの言葉~

夕方18時に薩摩川内に到着。安い宿は 喫茶店の2階で鍵は ダイヤル式の古いものだった。Tさんは仕事が終わらないらしく、待つことになり 街をぷらぷらする。

商店街は開いている店も少ない。原発の町で敦賀の気比商店街を彷彿させた。Tさんにあったら会社を辞めることどう言おうかな?

19時になってTさんは現れた。そして抱擁したおっさん同士で。「いこ いつもの店で

ええか」「なんや顔まっくろやん」「どのバイクや けっこうでかいな」「ようはしるな」矢継ぎ早にしゃべり店まで私が言葉を発することはなかった。

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店では 鶏のさしみや さかな 九州の醤油は甘い 薩摩焼酎談義。Tさんは会社を辞める話をさせなかった。そして今Tさんが、数百万の仕事のトラブルを抱えていること、N夫婦の話 震災の話。苦労したこと 娘さんが、鹿児島のテレビにでていること

そして美人であること 残念ながら年の離れた男に持っていかれること 楽しく かなしく 怒って 笑って 私も酔いが深まった。そして旅に思ったことを吐露し始めた

ミニストップで起きた事件のこと、自分がつらかったこと 自分が加盟店に優しすぎるので自分を頼りしんどくなったこと レコード会社を辞めた理由 仕事の目的をうしなったこと Tさんか うんうんと聞いていた。ただ答えは言わなかった。

「つじいくん うたいこや おねーちゃんはおらんけど ええか おばはん ばっかりやで」 ひさびさにスナックいった。若い女のひとはいなかったが、常連さんと盛り上がる店だった。

「つじいくん 実はおれ酒飲まれへんねん。でもここきてのむようになってん。仕事でいろいろ あるけど 俺はな 自分が楽しむために ここにおんねん」

人生は楽しむためにある

「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。
勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人をせむるな。
及ばざるは過ぎたるよりまされり。」

徳川家康の遺言と伝わっている言葉です。自分の人生も周り道をして まよっています。負けることを知りそれを力とし先に進んでいかないといけません。ただ辛いしんどいと自分を責めてばかりでは ポジティブになれない自分がいました。

いい学校にいくため、お金をかせぐため 家族をやしなうため 借金をかえすため 人の役にたつため 理由をさがしていたけど 私はもともと自分が楽しみたいんだ。 ミニストップにいて楽しんでいないんだ。事件後2年間 辞めたらだめだと我慢していたが、自分を楽しもうそう思ったとき 辞めることを決断できた。

薩摩川内の夜は3時まで続いた。ありがとうTさん。