twozzymasaの日記

徒然なるままに記す

うつ病について調べてみた

うつ病とは

ここ数年、ブラック企業・自殺などうつ病が増えているNEWSが流れてますね。

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ここ15年で精神疾患の患者数は1.5倍320万人に増加しています。その中でもうつ病は2倍以上の伸びを示している。昔から気鬱病とも言われ気分が晴れない、やる気がない 詐病(うその病気)みたいな扱いもあったりしたようだ。

実際医師の診断次第で障害年金をもらえて働かなくてもいい状態になるとさらに病気から抜け出せない。

日本人の100人に一人はうつ病になっている。僕みたいに既往歴でうつがあった人を含めるともっと多い数になるだろう。あるサイトでは10人に1人というデータもあった。

というのは、再発の可能性が高い疾患であるからです

うつが起きる原因

誰だってストレスを感じて落ち込んだり、転勤で不安になったりしますよね。でもストレス解消して元気を取り戻してなんとかやってますよね。

なんでうつ病なるの?ストレス発散が下手なだけだ。なんて意見も聞きます。怠け者だよ。何度も相談してきて なんてね。

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この疾患は、脳内物質の代謝異常が原因なんです。扁桃体という脳の部分は、危険感じると体全体に「あぶないぞ」という情報を発信します。ドキドキしたりして交感神経が活発になります。この偏桃体が地球上の生物に備わったのは5億年前らしくまだ哺乳類も存在していなかった時代からあるんです。魚でも天敵が現れるとこの偏桃体が作用し、逃げ回る。実験で1か月天敵と同じ水槽に入れられた小魚は、最初は活発に逃げ回るが、最後うつの状態になり動かなくなる。体力が落ちたのではなく、数週間以上「あぶないぞ」という情報が発信し続けると「元気になろう、活発になろう」という情報を発信を妨げてしまうことになる。「元気になろうという情報は」はセロトニンという脳内物質なのです。

セロトニン

簡単に3つの神経伝達物質の役割や作用記します

三大神経伝達物質の主な作用
セロトニン:衝動、心身の安定、心の安らぎ
ノルアドレナリン:興奮、意欲、不安、恐怖
ドーパミン:快感、意欲、学習、モチベーション

心の安定に作用するセロトニンが分泌されなくなると他の神経伝達物質の分泌バランスが崩れて異様に興奮したり、意欲が低下したり恐怖を感じなくなったり、双極性障害躁鬱病)のそう状態は、ノルアドレナリンが分泌されすぎたことにより元気になりすぎるです。

ストレスがあってもそれをばねにしてさらに頑張る人いますよね。それはその人なりにこの脳内物質を調整する方法を知らず知らず行っているのです。

ある友人は「もうあかーん。絶対無理」とかすぐ口にする。これがセロトニン代謝に影響していたりする。

前回登場した北海道の時の男性スタッフKさんは、毎日飲みにいき、競馬パチンコをして好きなアイドルを語る。これもセロトニン代謝

うつ病を発症した時の僕は、この知識もなかったし、僕がこの代謝異常になりやすい人であることを認識していなかった。

一番いいのは、魚で言えば天敵の水槽から別の水槽に移れば解決できる。僕の場合でいけばレコード会社を辞めれば解決できた。

しかし、うつ病の厄介なところは、辞めたという失敗経験が記憶となり、その記憶情報が回ることでセロトニン代謝異常となる。

ほんと厄介なんですよ。再発が多いのは、人間が記憶力がいいこれが原因なんですよ。

うつ病とはお付き合いするもの

26歳で発症というか、気付いたうつ病とはかれこれ20年間の付き合いになる。発症時が一番最悪な状態であり、今でも「やばいな」という時がある。それはこのブログで徒然に書き残していこうと思っています。抑うつ薬は、不安状態や緊張状態を抑制するけど副作用があってかつ依存作用がある。薬がないと生きることができなくなり、逆に治らなくなる。病気というのは医師が治すものではなく、患者が治そうとするものと思う。精神疾患患者が陥るのは、薬地獄だ。僕は1年薬を飲み続けたけど治ったという実感がなかった。副作用の倦怠感・薬が合わない効かないときの絶望感・勃起不全の期間もあった。「薬から離れないといけない」「自分で治そう」そしてお付き合いするものと思った。もう僕が鬱になりやすい性格・体質であることはわかった。しかないなぁ付き合っていくしかないか。完治はないけどコントロールはできるようになろう。そうおもったんです。

以外に多いうつ病の有名人

詳しくは以下のリンクを見て欲しいですが、ナインティナイン岡村隆史は番組で公開していたので知っている人も多い。あのリンカーン双極性障害であったという。

鬱になりやすい性格は「生真面目」「自意識過剰」「責任感が強い」「感情を表現しない(不満を言わないいい人)」「自己責任感が強い」「テンションの差が激しい」「常識、モラル、正義をいつも意識し、他人との関係をうまく築こうとする」「執着 頑固」僕は、テンションの差が激しい以外全部該当する。特に頑固、感情を表現しないはどうしても変えることができない。今の職場でも「仕事たまっている、無理~」とか言っている人を見て「僕はたまっていたら恥ずかしくて言えないよ」と思っている。

ナインティナイン岡村隆史は「うけなかったら、自分のせいではなく相方のせい、それを選んだディレクターのせい、それを撮ったカメラのせい 照明のせい」と言っていました。

作家の藤沢周平は、妻を亡くしたことでうつ病を発症した。うつの症状を抑えるために時代小説を書いた。その結果藤沢周平の作品には哀愁が漂う。

 

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続く。。。。

秘密

うつ病でした。

レコード会社で仕事をしていた26歳の時、自分がうつ病になっていることを知った。それまでに悩むことは多くあったが、これが病気なんだなんて全く思っていなかった。

当時、北海道の営業室長になり現場の諸問題を解決すべく仕事に取り組んでいた。自分のやりたかった仕事だ。最年少の営業室長だ。成果を出さないと!しかし、レコード店や放送局との軋轢を解決することができず、さらにチーム内の不和がさらに深まり、半年後、精神病院に行ったら「辻井さん、仕事と転勤が原因のうつ病です。治療するには仕事を辞めたほうがいいです」と言われた。

症状は

不眠。というより、2時に寝て3時に起きる。寝る行為はするのだが、起きてしまう。

自律神経失調症。倦怠感。ふらふらする。動悸。

急激な体重増加。アルコール依存。そして 治療して半年後に円形脱毛

心が崩れていく過程

レコード会社の仕事は、10時に出勤し、深夜24時くらいまで。営業は、10時に開店するレコード店に行き初回注文(イニシャル)や追加注文(バック)を取ってくる。また商品の販促(展開)を決めてくる。要は売れるようにしてくる。閉店までまわってこいというのが当たり前でした。北海道はあるレコード店がシェアのほとんどを占めていてバイヤーの当たりがきつかった。例えばアポを取ってくれなかったり、行っても1時間2時間待たせるなど。今までこんな仕打ちを受けたことはなかった。僕にとって乗り越える試練だったんろう。プロモーションは、ラジオやテレビ雑誌で取り上げてもらえるよう働きかける。始めてこの仕事をしたので慣れてないこととメディでは当たり前の広告出稿、アーティスト出演、グッズ提供など一切だめ。人間関係を作って皿をまわす(音楽をかける)営業も兼任しているのでそんなにいくことができないので皿(CD)を渡すくらいしかできなかった。当然ラジオを聴く時間もなく、相手のことも知らないので。あとからの反省ですが、引き継ぎもなく関係障害がある中にいったので関係障害を引き継いでしまった。東京の本部の人も同じような素人で問題解決できる仕組みもなかった。管理職の仕事は、主にはスタッフ間のトラブル相談だ。女性4人 男性1名。女性同士が仲が悪かった。男性はいいやつだったが、典型的B型でマイペースで全然気にならない性格。僕は気にする性格。うまくいかないとへこんでしまう。しかも一人の女性スタッフと恋愛感情ができてしまい、別の女性スタッフから恋愛感情を持たれてしまい人間関係がぐちゃぐちゃになってしまった。

爆弾落ちた

半年後、会社のトップがイチ押しのアーティストがデビューする。営業、プロモーションとも失敗し、一人責任を感じた。東京から管理職3人が来てレコード店の人を接待し、何とか展開してもらえるようになった。その接待の席でレコード店の嫌がらせをしていた人が、僕の悪口を管理職に言いまくり、管理職も「酒飲んでんじゃねえぞ」とその場で叱責する。忘れられない屈辱になった。管理職3人は、女性スタッフ間のトラブル解決のため、僕に恋愛感情をもっていたスタッフを解雇した。「おめのために嫌なことをやってやったんだよ」「これからは自分でやれよこら」スタッフ間のトラブルはなくなり、いち押しアーティストの形はできた。僕は何もせず、管理職3人の失望と僕の精神崩壊は同時だった。僕が恋愛感情をもったスタッフからは仕事仲間でお願いしますと断れてしまった。

治療していく

僕の異変に気付いたスタッフが、管理職1名を北海道に呼んだ。管理職は「一回病院行け」といい、僕は精神病院に行った。精神病院は問診中心だ。僕は何時間しゃべったんろうか。Drは「うんうん」と相槌を打つだけ、話を終えた僕に「あなたは真面目な性格で自分の失敗を受け入れられない。A型っていうですよ。血液ではないですよ。まじめでしっかりやらないとだめな人のこと。慣れない北海道にきて管理職になって頑張ったんですね。全部仕事を抱えて。もう頑張らなくていいですよ。」

自然と涙があふれた。頑張らなくていいんだ。でもやらないと失敗したから挽回しないと。だってやりたかった仕事なんだから。仕事で成果をだせば彼女も考え直してくれるはずだ。Drは「頑張ってはいけない。病気が進んでしまうから。あなたは病気なんです。仕事を辞めて大阪にもどったほうがいい」

「考えることができないので今日は帰ります」

事務所にもどると管理職1名は大きな身体を椅子にもたれかけて待っていた

「で どうなんんや」 僕はしどろもどろに説明した。半分くらいしか伝えられないがDrに仕事をやめろと言われたことはしっかり伝えた

スタッフ会議

管理職1名は「みんなで話し合おう」といい、営業に出ているスタッフを呼び戻した

スタッフは不安な表情で集まってきた

「こいつ うつ病や。仕事辞めて大阪帰れと言われたんや。みんなええか」

管理職1名は、何の前置きもなくみんなを驚かせた

スタッフが何をそれぞれいったは、覚えていないけど「私のせい」「辞めて欲しくない」「みんなで支える」そういうことをいっていたと思う。

「みんながそういうなら会社は辞めないです。自分でもどうしたらいいかわからないけどみんなと頑張ってみるよ」

あれだけDrが頑張ってはいけないと言っていたのに。

僕とうつ病のお付き合いが始まってしまったのです。続く( 一一)

 

 

久々に書いてみた

ミニストップに行かなくなって1年が過ぎました。

2016年8月末が最終出勤日でした。もう1年です。早いもんです。この一年で変わったことを考えてみました。

①体重が5㎏減った。

じわじわとですが、昨年の今ごろに比べて5㎏減っています。上下しながらですがゆっくりと原因は規則正しい食生活ですね。一日2食が定着し、7月から18時以降炭水化物を食べないようになりました。急に減ることはなくじわじわと減っています

②血液検査の数値が変わった

中性脂肪 520⇒152  中性脂肪というのは血液中の余分なエネルギーこれが体の各所で脂肪になり太るんです。大きいのは炭水化物を減らしたことですね

r-GTP  250⇒60  毎日飲んでいた晩酌を週1回程度にしまいた。アルコールは血流を悪くするらしいです。3月から漢方医にかかり 指導の下酒を控えたら 背中の痛みが軽減しました

③給与が減り 資産が増えた

年収で150万ほど減りましたが 資産は50万ほど増えています。原因は支出の改善です。実収入は月5万ほどの違いです。ミニストップに消費していた分は自腹を含めて無駄な出費を改善すれば支出改善ができました。

④時間が増えた

月9回の休みは確実に取っていますし、家に19時には帰っています。できた時間はマラソンしたり、山に登ったり 本を読んだり 録画した番組を観たり 仕事ばかりしている人生なんてどうかなと思います。楽しむために人生は在る

⑤好きな女性ができた。

昨年は余裕がなく、それらしいアプローチもあったのですが、「あなたのことを考える余裕がない」という状態でした。やはり誰かを想うことは自分にプラスになることが多い。その人に楽しんでもらいたいと考え、どきどきし はらはらし 顔を見て幸せを感じる。

目標はまだ。

辞めてやりたいと思っていたことがまだできていないですね。

マラソンの完走。今年11月23日福知山マラソンにエントリーしました。3年前は18キロでタイムオーバーになっています。練習して完走したいです。

 

 

 

 

 

少欲知足に至る。

資本主義と社会主義

僕の世代では社会主義=悪というイメージがある。映画「ロッキー4」ではソ連とアメリカが戦い  自由=資本主義(アメリカ) 不自由=社会主義ソ連)みたいな描かれ方をした。そもそも社会主義は 資本主義=悪から出てきたものということをほとんどの人は知らない。

資本主義経済の成立

資本主義経済は、18世紀後半のイギリスでおきた産業革命をきっかけに成立しました。
自由競争により利益を追求して経済活動を行えば、社会全体の利益も増大していくという考え方に立脚しています。以前の絶対君主性のように国の介入を受けず、自由に取引が行われ いい商品、多くの資本 いいサービス いい商品 いい人材 含めて 資本というのですが、資本をうまく使って社会の財を増やしていけばよかったのですが、問題が生じたのです。
「格差 貧富の差」ができてしましったんです。当時は、資本家と労働者 お金や人材サービスを握っている資本家に財が集中し、労働者は長時間労働を余儀なくされ 労働運動がおきたんです。

 その「悪」の資本主義に立ち向かうべく生まれたのが社会主義なんです。「格差 貧富の差」を改善し「平等」にしたんです。いい考えじゃないですかね。

1917年のロシア革命を経て、1922年にはソビエト社会主義共和国連邦ソ連)が成立したことで、実際に社会主義経済が実現されるようになったのです。

国が管理し指導したとおりに経済活動を行うので、労働者ががんばって働いても賃金はあがりませんし、効率よく仕事をしようと努力する必要もありません。
競争がないため、よりよい商品をうみだそうと技術改良が加えられることもありません。何をしても平等ならやっても意味がないやん。人の気持ちが財を生み出す体制ではなかったんです。また多数のいい人材が動かす自由な資本主義と社会主義のもう一つも問題が、一部の官僚なんです。権力が集中し 一部の人材の意思決定にゆだねられる社会ははずれてしまった場合の補填がなかったんですね。

農業国だったソ連は、工業国に追い付けと強みである農業から強制徴収を手段を取ったことで農業が疲弊してしまいます。年貢金額を一定にしてしまったとき、不作でも一定額を徴収し 国は財を集めることができましたが、農家は疲弊していったんです。ソ連崩壊 中国文化革命など起こりそこで社会主義=悪 というイメージが資本主義国に生まれたんです。しかし、資本主義の本質的な問題 「格差 貧富の差」は解消されていません。

アメリカ合衆国は、自由の国 アメリカンドリーム いいイメージですが、資本主義が崩壊した末路の国になってしまった。もともとは、絶対君主制から独立した自由な国だったのが、限りない財の増加のニーズに応えるため、戦争を繰り返していった。太平洋戦争は、大きなアジア権益の勝者足らんと日本を倒した。その後 朝鮮半島ベトナムイランイラク 中東 イスラエル 大きなアメリカ資本の拡大のために戦争と並行して市場を広げていった。

アメリカだけでなく、日本もそのパートナーとして資本を拡大していった。その裏で発展途上国を生み 世界的格差を生み出した。それがテロという形でかえってきている。

日本国内の資本主義も崩壊している。限りない資本の増加はありえないのでどこかで崩壊する。

歴史的に見て 日本は、墾田永年私財法以後、超社会主義社会だった。一部の貴族が資本を独占し、国民に資本が投下されることは少なかった。資本家である貴族の政策にゆだねられた社会では 拡大することはなかった。平安末期 農民の代表であった武士たちが立ち上がる。地方自治という時代になる。一部の貴族(資本家)から財を奪え 武力を用いて 実支配していった。しかし武士たちは 平家 源氏の2派に分かれて戦い 源氏という一部の武士たちが支配する社会主義社会をつくった。君主性社会主義だ。財である土地は 分配され 一度は安定した。しかし外国から資本主義の集団が襲ってきた。

チンギスハーン

テムジンというモンゴル族の棟梁は 小さな族長の息子だった。父エスガイを殺され モンゴル族は崩壊し、母と弟だけの集落になってしまった。テムジンは 商業の力を知る。

当時の金(中国)の商人は、モンゴルにない力を持っていた。少ない財を奪い合うしか生きることができない社会に疑問を感じた。テムジンは部族を広げる戦争の中で手柄を立てたものに財を与えた。手柄を立てれば財が手に入る。その繰り返しが巨大帝国元となった。国を滅ぼし 財 人 文化を奪う。 しかし 最後は崩壊した。

元寇で、財を奪いに来たモンゴル人を日本は何とか撃退できた。しかし、今まで安定していた財の平等が保てなくなった。戦ったにもかかわらず 財を得ることができなかった。

そして ガラガラポンが起きる。建武の新政南北朝 また 2派に分かれて 財を奪い合った。その結果  南朝が治めたが 一部の将軍直轄の軍事力や財政基盤は弱く、中央の幕府が上位に立ち、地域権力たる守護大名がその監督下にありつつも、両者が相互補完的に政治的経済的支配を展開した。そして応仁の乱嘉吉の乱で分散化していた守護大名がさらに細分化した。戦国時代の始まりだ。

 多数の国人が支配し、奪いあう時代になった。資本主義の到来だ。多数の優良領主が生まれた。武田信玄上杉謙信 北条5代 今川 伊達 朝倉 毛利 長曾我部 龍造寺 島津 文化革命も起こった。鉄砲の伝来 楽市楽座自由主義経済の導入。それにいち早く気付いたのが織田信長だった。財=土地から 市場経済 文化 技術 資本という存在に気付いた。またそれは人の気持ちで拡大していくことを知っていた。長く君主制社会主義経済体制から絶対君主性自由主義資本経済体制をつくった。信長のあとの秀吉はさらにこの体制を拡大するために明国に攻めていった。のちの明治国家を同じ資本主義の拡大を続けるには、戦争と奪い合いが必要なのだ。

 結局、戦争に敗れて 国内では 奪い合いの終結を家康が関ケ原、大阪の陣で終わらせる。豊臣を滅ぼしたとノスタルジーな歴史フアンが怒るかもしれないが、家康こそ資本主義も奪い合いの無力さを知っていた人だ。彼は多数の立憲君主社会主義国家を作る。幕藩体制だ。幕府は実際には統治していない。藩という体制が複数あり、それぞれが統治していた。貨幣経済は、管理しきれなかった。商人たちは実力を持ち力をもっていった。しかし、享保、寛政、天保の改革など質素倹約という国のコントールにより財務管理をおこなった。国民に財が落ちることは減ったかわりに戦争がなくなり、安定が生じた。

 その崩壊が開国だ。そう資本主義大国のアメリカがやってきたのだ。社会主義国家の江戸幕府が崩壊し、立憲君主性資本主義国家 明治国家が生まれる。大きく成長を明治という時代だ。坂の上も雲 成長できる。しかし、アジア諸国から奪うことを始めたのだ。そう秀吉 信長がそうしたかったように。

資本主義時代は成長を伴うが、戦争と奪い合いを伴う。格差を生み 買ったものはいいが負けたものは報われない世界。

 そもそも食物連鎖で奪い合いなかで 生き物は生きている。昔から戦争は行われて限りなく奪いあった。そこで社会主義のような一部の体制で多数を管理する社会で平等な社会がいいといわれたが、平等=不平等な社会を生み出した。

 ブッダゴータマ・スィッダッタ)は、インドの王子だった。財に恵まれて 妻や息子に恵まれて暮らしていたが、満たされない何かがあった。欲は無限であり 奪い会う世の中に苦しんだ。4苦(生、老、病、死)の悩みから解放されず、苦行に身を置く。そして悟りをひらく、此(煩悩)があれば彼(苦)があり、此(煩悩)がなければ彼(苦)がない、此(煩悩)が生ずれば彼(苦)が生じ、此(煩悩)が滅すれば彼(苦)が滅す

煩悩=欲 を知ること 足るを知り、欲を少なくする 「少欲知足」という教えだ。

 アメリカファーストいうが、そのアメリカ人は 食べていけないわけではない。あの成長しつづける欲深いアメリカを追い求めている。日本もそうだ。もう成長している。食べていけないわけではない。自分が必要な財を得ればいいのだ。今日本の資本は高齢層に集中している。「財を残すは下。されど財なくんば事業保ち難く。事業を残すは中。事業なくんば人育ち難し。人を残すは上なり」後藤新平の言葉だ。昔の日本人にはこういう考え方があった。麻生副大臣が大げさだが、高齢者は何歳まで生きたいのだ行ったが、財に固執するよりも未来に人に固執するのはいいのではないかと思う。少欲知足で人を残すは上なり。これからそんな生き方をしてきたいと思っている

 

人生の楽しみ

人間活動の再開

人生は楽しむためにある。そんな単純な子どもじみたいたって短絡的な生きた方を選んだ。お金は十分に稼いだ。というか使っていない。恋愛、結婚、出産、子育て 住宅購入 子育て資金 ローン返済 僕には皆無なことだ。

 今までも自分のしたいように生き、したいことを選び、生きてきた。でも何か楽しめないことが多かった。自分は何がしたかったのか?考えてみることにした。

幼少期の夢

想像するのが好きだった。超合金のおもちゃを持ってアニメの世界を想像し、近くの女の子の家ではキキララの家?だったか 家庭生活を想像していた。

 家のすぐそばの壁に野球のボールの投げて独りで試合をする想像をしていた。独り遊びの名人だった。

ボーイスカウト

父がやりたかったと理由を後で聞いたが、小学校2年からボーイススカウトの下部組織カブスカウトに入る。小学校区以外の人と週末 キャンプにいったり、ハイキングしたり、冬はスキーにいったりした。夏のキャンプは3泊4日あって子どもだけでテントに泊まり、自炊するのがきつかったけど、山好きやアウトドアが好きになったのはこの時間を過ごしたからかなと思う。

歴史に出会う

大仙公園にある堺市立図書館に兄と母と通っていた。母は兎に角本をよく借りて読んでいた。兄と僕は紙芝居であったり、録音したテープであったり、本はあまり好きではなかった。そこに漫画があることを知り 日本の歴史に出会う。ドラえもんあさりちゃんなどの漫画は小遣いの範囲でしか買うことができなかったけど。学習という名目のものは別会計だったような気がする。織田信長豊臣秀吉野口英世リンカーンなど自伝ものをよく読んだ。大河ドラマで初めてみたのは「黄金の日々」じいちゃんが見ているのをよくわからんとみていた。その後 徳川家康 女太閤記と両親が見ていたのをおもろないなーと見ていた。それが図書館で見ていた漫画であることに気付き 関連書物を読むようになる。独眼竜政宗武田信玄、ドラマと書物を平行して読み 歴史好きになっていった。

音楽に出会う

こどもの時は、沢田研二勝手にしやがれを真似したり、ピンクレディを歌ったりしていたけど、歌詞がわからないと思っていた。音はテレビから聞こえますが、歌詞がわからないから聞いた変な歌詞を歌ってました。巨人の星は重いコンダラと思ってましたから。ある友人から明星と平凡の付録に歌詞があることを聞き、入院中のじいちゃんにねだったのを覚えています。それから兄が毎月歌謡曲という雑誌を買っているのを見せてもらってました。

 かっこいいなと思ったのはWhamというPOPディオ。マクセルのカセットテープのCMソングになっていて夕方のMTVを録画してみていた。MTVから色々な洋楽を知ることをなった。でも残念なことにしばらくしてWhamは解散してしまうんです。

 中学の時にサザンやユーミンとかおねちゃんのアルバムを録音したるわという流れで色々聞いたけど Whamほどはまる音楽はなかった。

バンド活動

高校になって尾崎豊にはまってしまった。音楽ではない。歌詞の世界観にだ。男子校、進学校 堺から大阪市内にいくことで これまでの地元の仲間から離れてしまった孤独感が 尾崎豊の世界観とリンクした。尾崎豊を弾くためにギターを買った。でも全然ひけずにいた。中学の友達が僕がギターを買ったことを聞きつけて、何故かハードロックのバンドをやることになってしまった。WHITESNAKEBONJOVIコピーバンドだ。それにより孤独感から解放された。それと並行して尾崎豊を聴かなくなっていった。大学に入りバンドは解散した。大学の音楽サークルに入ったが、なじめず辞めてしまった。でもずっとギターを弾いていた。ギターが弾けるのは他の人と差別化できることだった。練習を重ねて以前弾くことができなかった難しい曲も弾く事ができるようになった。自分の存在意義がギターを弾くことだった。

音楽で食えたらいい

今考えると何でそんなことを思っていたか不思議だ。15歳くらいから5年間ほどそればかりやっていたので食えるかどうかよりも他人より差別化できるものがしたかったのだろう。そんな理由で音楽の仕事を目指すことになる。そして数年後現実となる。自分はサクセスストーリーを邁進していたのだろうと思っていた。そのサクセスストーリーはレコード会社退職で終わることになる。

何が楽しかったのだろう

これだ。というのはないが、何かを目標をもってやっているのが楽しかったような気がします。目標は想像する世界。そう子供の時に独りで壁にボールを当てて野球を想像していたようにWhamのように音楽の世界観を想像し、尾崎豊になりきり、歴史の世界を夢みて まだ見ぬ自然世界を想像していたのだろう。

これから想像する世界は何なんだろう。

 

 

 

 

 

空白の20160901~0930 ⑥

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阿蘇山へいこう

熊本から東に向かうと阿蘇山がある、中学の修学旅行で行った以来だったが、地震の影

響で入ることが出来なかった。そのまま東に向い竹田市の岡城に向かう。

「荒城の月」滝廉太郎の歌のモデルの城だ。

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天正14年(1586年)、先に耳川の戦いで敗れ衰退した大友氏を下すべく、薩摩の島津氏が豊後府内に迫る快進撃を見せていた中、岡城のみは志賀親次の指揮のもと再三にわたり島津軍を撃退し、親次はその功績から豊臣秀吉より天正15年正月3日付けの褒状を受けている。難航不落の山城であり、歌のイメージに合う静かな街のシンボルだ。

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九重連山を走る。高原の清々しい空気を楽しみながら この日の夜別府から船に乗って大阪に帰る。別府に早くついてしまい、Tさんに教えてもらった泥湯に入った。中は泥湯ではなく 泥池で混浴で若い女性も入っていてびっくりしてしまった。

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人間活動の再開

宇多田ヒカルが 歌手活動を中止するとき こんな言葉を使った。15歳から歌手をして人間として経験する色々なことができなかった。何のための人生か。生きることに楽しみを感じるないと意味がない。人生は重荷を背負っていきていかないといけない。本当に徳川家康がいったがわからないらしいですが、そんな人生は意味がない。自分が楽しくないと人を楽しくできない。だからミニストップで苦しんだ。自分は楽しむために仕事をしよう。そんなに稼がなくても生きていける。この5年間でできなかったことをやろう。そう考えた時、人間活動の再開という言葉がピンと来た。

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サンフラワーにのって帰ります。サー 人間活動の再開だ!

空白の20160901~0930 ⑤

薩摩の黒板五郎(北の国から

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薩摩川内の朝、Tさんの家に寄った。N夫妻や他の仲間への焼酎を持って帰るためだ。

関西人のTさんは、尼崎のライブハウスで今の奥さんと知り合う。奥さんが薩摩川内出身で奥さんとこどもたちと自然豊かなこの街に移ってきた。市内から少し山に入った東郷という町。川内川が流れて集落という感じだ。

 「つじいくん 一緒にきてくれへんか」

 車に乗り 近くのコメリで材料を買った。「夢工房」Tさんは、建築業を自分独りでやっていた。簡単ではなかったという。関西から来た人間なので中々なじめなかったという。しかし、一つ一つ 仕事をやっていく中で人間関係を築き 独立して仕事をするようになったという。

 「でもな 人間関係がしんどいときもあるで」

 町特有の議員さんとの関係、近所付き合い等。

 「自分でやっているから時間のコントロールもできる。仕事量を減らしたら収入減るしけど、食っていけるようになったからええねん。逆にな。仕事やりすぎると他の人の仕事を取ってしまうことになるから このへんが難しいねん」

 この発想に共感できた。コンビニビジネスは 奪い合いだ。市場の原理に任せて淘汰されていく。コンビニ自体も既存のスーパーや百貨店のシェアを奪ってきた。ただ、コンビニはフランチャイズという形態を取り、加盟するオーナーにリスクを負わせ、リスクを分散させる。店舗指導員が必要なのは、オーナーの監視係なのだ。その仕事に就いたとき あたりのキツイオーナーを担当した。4年程だ。深夜でも電話をかけてクレームをいれてくる。今考えれば、彼らは自分の不利な状況のフラストレーションをぶつけていたのだ。最前線の店舗指導員は それを受ける立場だったのだ。

優しい同僚Kさんの話

 ミニストップで仲の好かった60歳のKさん。見た目は強面で仕事をぜんぜんしないという噂で社内であっても挨拶する程度だった。きついオーナーを担当した後、5年前同じチームに異動してきた。噂を聞いていたのでそんなに話をするということはなかった。

 翌年、チームの長が変わり状況は一変し、管理を徹底するようになった。本部としてやることを徹底する。それ以外はない。仕事をぜんぜんしないKさんは、どうなるのだろう。他人ごとのように心配した。しかし、Kさんはうまくすり抜けた。逆に私に矛先がまわった。その後別の店舗指導員も同じことになり チーム内は疲弊していった。

加盟店を監視できない店舗指導員は 悪だ。「おめえのせいで売上が落ちているんだ。やる気がないならやめてくれ」そんな言葉を会議で皆がいるなかで言われたこともあった。

 半年ほど経った。累積の違反があり 免許停止になり 交通機関でも巡回になった。ある店は 山の上にあり 移動するだけで大変になった。言い訳はいけないが、17時半までに全店に電話をして発注数を上げる「2閉め」を強要された。アポが17時にあるので移動しながら電話をしていたのだ。佐川急便の違反が多いのは報道されたが、コンビニの仕事も違反が多いのだ。でも言い訳はいけないと思う。大変のな状況の中、山の上にある店が、文句を言いだした。無理に開発が契約を急いだこの加盟店は、運営能力がなかった。そういった加盟店を多く担当してきたチーム長は、辞めて欲しいとずっと言っていた。言い出した文句の内容が、契約違反に接触する内容であった。

 「辞めさせることができるチャンスだ。同じ考えでいてほしい」そう言われた。その加盟店は 人間的に好きな人であった。彼も自分の不利な立場を知り、文句をいっているだけだった。辞めさせるのはどうか ?私の正義は何か? 心が揺らぎ始めた。しかし、チーム長はやる気であった。

「ICレコーダーをつけてくれ。そしてつじいさんが言った言葉も細かく毎回報告してくれ」

 こころが切れた。僕も信用されていない。嫌そうだろう。僕は監視係が嫌なんだ。

「会社を辞めさせてください」電話で報告した。「やっぱりそうか お前はそんなやつだ。早くやめろよ」チーム長は叱責した。

40歳になっているのでここで辞めれば不利とはわかっていた。ただ、自分の正義に嘘をつけなかった。京都から電車で帰るところ、四条から京都駅まで歩いた。心が壊れそうだったから 歩いて落ち着かせようとしていた。

「おーわしや Kや  どこおんのや おくっていくよ」

七条あたりでKさんから電話が鳴った。恐らくチーム長が腹が立ってKさんに電話したのだろう。

「つじいちゃん。あんたのええところは 情が深いところや。わしは好きや。でもな 利用されんねん。利用されてしんどなんのんつじいちゃんやねん。この仕事は 利用されないようにうまく立ち回るんや。加盟店を助けたらあかんねん。でもな加盟店に嫌われたらあかんねん。難しいけどな。自分を守らないといかんねん。辞めるっていってないやろな。寂しいやんわし。あんたみたいはええ人 がんばっているひと やめたらあかん」

「やめるとか言ってないですよ。でもありがとうございます。Kさんの言っていること当たっていると思います」

電話を切った後、涙が出た。いざというときに助けてくれる人 いるんだ。Kさんは、仕事をしていないのではなく、うまく立ち回っていたんだ。出世はしないけど家族を守るためにバカを演じ、仕事してきたんだ。そして自分のことのように僕を心配してくれた。

少欲知足

5年前、中村敦夫 『簡素なる国』を読んでこの言葉を知った。
時代の閉塞感、いくら仕事をしても お金を稼いでも『幸福感がない』
果てには、身体と精神を病んで死んでしまう人もいる。
『簡素なる国』から抜粋
産業革命から始まった近代は、「無限の経済成長」という旗を掲げ、二〇世紀前半に爆発的な開花を見せました。しかしながら、その原理の致命的な欠陥ゆえに、その後急激な衰退の道を辿り、今や死の淵に追いつめられた。私はこの状況を、人類を閉じ込めている「四面の壁」と表現し、四つのテーマを取り上げて説明しました。...それにしても、この危機からどう説出するか?私の答えは「貪欲と競争」から「少欲知足」への価値観の転換、「グローバリズム」から「ローカリズム」への社会システムの転換です(「始業チャイム」より)。
老子」でも「足るを知る者は富む」とある。
コンビニエンスストアは、売上高を昨年より増やす為に出店を押し進める。
数メートル先にもあるにも関わらず競争の原理だから仕方がない。
貪欲と競争の果てには 勝ったものと負けたものができ、淘汰される。
ミニストップも上位チェーンとの貪欲と競争の果てに淘汰される可能性が高まってきた。
しかし、勝った上位チェーンも新たな貪欲と競争が始まり休むこともない。
足る すなわち 自分がどれだけ必要か知ること を自覚しないと どれだけ増えても満たされない。

フェリーで天草に

Tさんの家を後にして長島に行き、フェリーに乗り天草半島に渡った。中々行くことないと思い 遠回りしたのだ。

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自分が目指すのは

  5年前に退職を申し出たが、Kさんの優しい言葉で退職を留まった。「うまく立ち回ろう」そうやってなんとか過ごしてきた。3年後、経営に行き詰まった担当店が売上金をもって逃げた。その責任を負わされ半年間、その店の兼任店長になり、過重労働を強いられた。異動した福井県で直営化が進み、結果過重労働することになった。

 もううまく立ち回ることができなくなってきた。なんでそうなるのだ。やはり加盟店に不利な契約を続けるこのビジネスに無理があり、自分自身その事実に目を背けていい人を続けることができなくなっていた。

 利益を追い続けた先にあるのは、経営破たんしたオーナーであり、その穴埋めをする自分であった。この仕事を続けるには、監視役になり 加盟店がつぶれようとも本部の利益を守り、会社のやることを徹底させることだ。そう思った。

 「儲けすぎてはいけない そうすると 儲けれない人がでる」Tさんの言葉だ。亡くなった父が建設業界にいて 談合は必要と言っていた。そのとき同じことを言っていた。少欲知足でありたい。自分の目指すのはその生き方なんだ。

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熊本に着いた。昨日飲みすぎたこともあり ホテルに入り10時間ほど眠った。城は地震の影響で入ることができるところが少なかった。