twozzymasaの日記

徒然なるままに記す

空白の20160901~0930 ③

島津義弘という漢

義弘という名が有名ですが、1585年まで忠平と名乗っていた。

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関ケ原で動かず、敵の向かって中央突破で退却した島津の退き口で有名だ。また65歳で朝鮮の役で鬼石曼子(オニシーマンズ)と恐れられる戦を繰り広げ 戦上手の武将のイメージがある。しかし知られていない戦がある

義弘が若い時、3000VS300の戦に勝利した木崎原の戦い(きざきばるのたたかい)だ。

このあまり知られていない古戦場に行きたかったのだ。

 

senjp.com

 

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私は早朝の霧島連山を抜けて えびの市に向かう。いざ木崎原に!!

薩摩一国を統一した島津氏は北の日向に次男義弘、南の大隅に三男歳久を配置した。日向には伊東氏が占拠。義弘が動かせる兵は300人が限度だった。義弘不在を知った伊東氏は3000人の兵で加久藤城を攻める。

隣の飯野城にいた義弘は数100騎で応援に向かい 50騎ずつ伏兵を配置する。城からの反撃を受けた伊東兵は混乱し 木崎原に逃げ込む。「釣り野伏」この戦法が伊東を壊滅に追い込む。わざと負け 追いかけた先に鉄砲隊が配置されているのだ。一斉射撃で壊滅する。また逃げ込んだ先にも伏兵が配置され死体の山ができる。3000人の伊東は1000人ほど討ち死にする。寡兵をもって大兵に勝つ「島津」の戦だ。

そんな大勝利の余韻を感じて私は南の内城 鹿児島を目指した。内城は島津本家の城であった。義弘の貴久が島津本家の養子に入り 島津統一が開始される。元々薩摩 大隅 日向の三州を領土としていたが、分家に分かれたことで領土を奪われる。分家の伊作島津家に日新斎忠義が生まれる。貴久の父であり、4兄弟の祖父である。日新斎忠義は、策をめぐらせ 本家に実子を養子に送り込む。しかし本家は、伊作家を裏切り北の薩州家と結ぶ。貴久時代にはまだ統一はなされず、その意志は4兄弟に引き継がれる。

内城から北に向かう道沿いには義弘が攻略した城が並んでいた。その城をたどりながら鹿児島に昼ごろに到着した。

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内城(鹿児島)の後ろに城山がある。西郷隆盛が討ち死にした山だ。そこから桜島がよく見えた。その風景を眺めているとLINE電話が鳴った。Tさんだ。「いまどこや えーもうついたんか かごしまとまんのか?ラーメンはまずいで。唯一いいのは〇〇や 明日はこれるのか うん ほな 待っているで」人とつながることが有難かった。

何故か 東に向かうことにした。Tさんの「桜島にはフェリーが便利やで」その一言で東に渡った。

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500円で15分くらいで渡ることができた。その先は火山灰のシラス台地が広がっていた。兎に角バイクで走ると街中がうんこくさい。田舎特有なのか 匂いになれるのが大変だった。どこかの風景ににているなーと。。 そう 北海道の台地 だだ広い高原。

一泊3500円のペンションを一人貸し切り。この庭を一人しめできた。地元のスーパーで黒豚のみぞ焼き など地元食材を堪能した。ペンションの窓を開ける涼しい風が入り込む。外を眺めると真っ暗な闇。虫の声が聞こえるだけ。つまらない民法の番組を消して風と虫の声と時間の緩やかさを堪能した。「こんなに時間はゆっくり流れるんや」

明日はTさんと会えるなー 「辻井くん 会社やめるんか」聞かれるやろなー

何もしない時間ができると考える悪いくせが出始めた。そして一人旅が 久しぶりなことに気付いた。2012年からN夫妻と一緒に旅行に行くようになった。Nさんを連れ出すことが目的だった。Nさんは同じ歴史好きで萩から長崎 高知に徳島 私の車で旅行してきた。自分がNさんを癒しているつもりであったが、自分が癒されていたことに気付いた。独りは寂しいな。誰かとしゃべりたいな。そんな気持ちがあふれ出た。誰かとつながっていることがどれだけ安心か実感できたのだ。明日は久々に人とごはんが食べることができるな。

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