twozzymasaの日記

徒然なるままに記す

久々に書いてみた

ミニストップに行かなくなって1年が過ぎました。

2016年8月末が最終出勤日でした。もう1年です。早いもんです。この一年で変わったことを考えてみました。

①体重が5㎏減った。

じわじわとですが、昨年の今ごろに比べて5㎏減っています。上下しながらですがゆっくりと原因は規則正しい食生活ですね。一日2食が定着し、7月から18時以降炭水化物を食べないようになりました。急に減ることはなくじわじわと減っています

②血液検査の数値が変わった

中性脂肪 520⇒152  中性脂肪というのは血液中の余分なエネルギーこれが体の各所で脂肪になり太るんです。大きいのは炭水化物を減らしたことですね

r-GTP  250⇒60  毎日飲んでいた晩酌を週1回程度にしまいた。アルコールは血流を悪くするらしいです。3月から漢方医にかかり 指導の下酒を控えたら 背中の痛みが軽減しました

③給与が減り 資産が増えた

年収で150万ほど減りましたが 資産は50万ほど増えています。原因は支出の改善です。実収入は月5万ほどの違いです。ミニストップに消費していた分は自腹を含めて無駄な出費を改善すれば支出改善ができました。

④時間が増えた

月9回の休みは確実に取っていますし、家に19時には帰っています。できた時間はマラソンしたり、山に登ったり 本を読んだり 録画した番組を観たり 仕事ばかりしている人生なんてどうかなと思います。楽しむために人生は在る

⑤好きな女性ができた。

昨年は余裕がなく、それらしいアプローチもあったのですが、「あなたのことを考える余裕がない」という状態でした。やはり誰かを想うことは自分にプラスになることが多い。その人に楽しんでもらいたいと考え、どきどきし はらはらし 顔を見て幸せを感じる。

目標はまだ。

辞めてやりたいと思っていたことがまだできていないですね。

マラソンの完走。今年11月23日福知山マラソンにエントリーしました。3年前は18キロでタイムオーバーになっています。練習して完走したいです。

 

 

 

 

 

少欲知足に至る。

資本主義と社会主義

僕の世代では社会主義=悪というイメージがある。映画「ロッキー4」ではソ連とアメリカが戦い  自由=資本主義(アメリカ) 不自由=社会主義ソ連)みたいな描かれ方をした。そもそも社会主義は 資本主義=悪から出てきたものということをほとんどの人は知らない。

資本主義経済の成立

資本主義経済は、18世紀後半のイギリスでおきた産業革命をきっかけに成立しました。
自由競争により利益を追求して経済活動を行えば、社会全体の利益も増大していくという考え方に立脚しています。以前の絶対君主性のように国の介入を受けず、自由に取引が行われ いい商品、多くの資本 いいサービス いい商品 いい人材 含めて 資本というのですが、資本をうまく使って社会の財を増やしていけばよかったのですが、問題が生じたのです。
「格差 貧富の差」ができてしましったんです。当時は、資本家と労働者 お金や人材サービスを握っている資本家に財が集中し、労働者は長時間労働を余儀なくされ 労働運動がおきたんです。

 その「悪」の資本主義に立ち向かうべく生まれたのが社会主義なんです。「格差 貧富の差」を改善し「平等」にしたんです。いい考えじゃないですかね。

1917年のロシア革命を経て、1922年にはソビエト社会主義共和国連邦ソ連)が成立したことで、実際に社会主義経済が実現されるようになったのです。

国が管理し指導したとおりに経済活動を行うので、労働者ががんばって働いても賃金はあがりませんし、効率よく仕事をしようと努力する必要もありません。
競争がないため、よりよい商品をうみだそうと技術改良が加えられることもありません。何をしても平等ならやっても意味がないやん。人の気持ちが財を生み出す体制ではなかったんです。また多数のいい人材が動かす自由な資本主義と社会主義のもう一つも問題が、一部の官僚なんです。権力が集中し 一部の人材の意思決定にゆだねられる社会ははずれてしまった場合の補填がなかったんですね。

農業国だったソ連は、工業国に追い付けと強みである農業から強制徴収を手段を取ったことで農業が疲弊してしまいます。年貢金額を一定にしてしまったとき、不作でも一定額を徴収し 国は財を集めることができましたが、農家は疲弊していったんです。ソ連崩壊 中国文化革命など起こりそこで社会主義=悪 というイメージが資本主義国に生まれたんです。しかし、資本主義の本質的な問題 「格差 貧富の差」は解消されていません。

アメリカ合衆国は、自由の国 アメリカンドリーム いいイメージですが、資本主義が崩壊した末路の国になってしまった。もともとは、絶対君主制から独立した自由な国だったのが、限りない財の増加のニーズに応えるため、戦争を繰り返していった。太平洋戦争は、大きなアジア権益の勝者足らんと日本を倒した。その後 朝鮮半島ベトナムイランイラク 中東 イスラエル 大きなアメリカ資本の拡大のために戦争と並行して市場を広げていった。

アメリカだけでなく、日本もそのパートナーとして資本を拡大していった。その裏で発展途上国を生み 世界的格差を生み出した。それがテロという形でかえってきている。

日本国内の資本主義も崩壊している。限りない資本の増加はありえないのでどこかで崩壊する。

歴史的に見て 日本は、墾田永年私財法以後、超社会主義社会だった。一部の貴族が資本を独占し、国民に資本が投下されることは少なかった。資本家である貴族の政策にゆだねられた社会では 拡大することはなかった。平安末期 農民の代表であった武士たちが立ち上がる。地方自治という時代になる。一部の貴族(資本家)から財を奪え 武力を用いて 実支配していった。しかし武士たちは 平家 源氏の2派に分かれて戦い 源氏という一部の武士たちが支配する社会主義社会をつくった。君主性社会主義だ。財である土地は 分配され 一度は安定した。しかし外国から資本主義の集団が襲ってきた。

チンギスハーン

テムジンというモンゴル族の棟梁は 小さな族長の息子だった。父エスガイを殺され モンゴル族は崩壊し、母と弟だけの集落になってしまった。テムジンは 商業の力を知る。

当時の金(中国)の商人は、モンゴルにない力を持っていた。少ない財を奪い合うしか生きることができない社会に疑問を感じた。テムジンは部族を広げる戦争の中で手柄を立てたものに財を与えた。手柄を立てれば財が手に入る。その繰り返しが巨大帝国元となった。国を滅ぼし 財 人 文化を奪う。 しかし 最後は崩壊した。

元寇で、財を奪いに来たモンゴル人を日本は何とか撃退できた。しかし、今まで安定していた財の平等が保てなくなった。戦ったにもかかわらず 財を得ることができなかった。

そして ガラガラポンが起きる。建武の新政南北朝 また 2派に分かれて 財を奪い合った。その結果  南朝が治めたが 一部の将軍直轄の軍事力や財政基盤は弱く、中央の幕府が上位に立ち、地域権力たる守護大名がその監督下にありつつも、両者が相互補完的に政治的経済的支配を展開した。そして応仁の乱嘉吉の乱で分散化していた守護大名がさらに細分化した。戦国時代の始まりだ。

 多数の国人が支配し、奪いあう時代になった。資本主義の到来だ。多数の優良領主が生まれた。武田信玄上杉謙信 北条5代 今川 伊達 朝倉 毛利 長曾我部 龍造寺 島津 文化革命も起こった。鉄砲の伝来 楽市楽座自由主義経済の導入。それにいち早く気付いたのが織田信長だった。財=土地から 市場経済 文化 技術 資本という存在に気付いた。またそれは人の気持ちで拡大していくことを知っていた。長く君主制社会主義経済体制から絶対君主性自由主義資本経済体制をつくった。信長のあとの秀吉はさらにこの体制を拡大するために明国に攻めていった。のちの明治国家を同じ資本主義の拡大を続けるには、戦争と奪い合いが必要なのだ。

 結局、戦争に敗れて 国内では 奪い合いの終結を家康が関ケ原、大阪の陣で終わらせる。豊臣を滅ぼしたとノスタルジーな歴史フアンが怒るかもしれないが、家康こそ資本主義も奪い合いの無力さを知っていた人だ。彼は多数の立憲君主社会主義国家を作る。幕藩体制だ。幕府は実際には統治していない。藩という体制が複数あり、それぞれが統治していた。貨幣経済は、管理しきれなかった。商人たちは実力を持ち力をもっていった。しかし、享保、寛政、天保の改革など質素倹約という国のコントールにより財務管理をおこなった。国民に財が落ちることは減ったかわりに戦争がなくなり、安定が生じた。

 その崩壊が開国だ。そう資本主義大国のアメリカがやってきたのだ。社会主義国家の江戸幕府が崩壊し、立憲君主性資本主義国家 明治国家が生まれる。大きく成長を明治という時代だ。坂の上も雲 成長できる。しかし、アジア諸国から奪うことを始めたのだ。そう秀吉 信長がそうしたかったように。

資本主義時代は成長を伴うが、戦争と奪い合いを伴う。格差を生み 買ったものはいいが負けたものは報われない世界。

 そもそも食物連鎖で奪い合いなかで 生き物は生きている。昔から戦争は行われて限りなく奪いあった。そこで社会主義のような一部の体制で多数を管理する社会で平等な社会がいいといわれたが、平等=不平等な社会を生み出した。

 ブッダゴータマ・スィッダッタ)は、インドの王子だった。財に恵まれて 妻や息子に恵まれて暮らしていたが、満たされない何かがあった。欲は無限であり 奪い会う世の中に苦しんだ。4苦(生、老、病、死)の悩みから解放されず、苦行に身を置く。そして悟りをひらく、此(煩悩)があれば彼(苦)があり、此(煩悩)がなければ彼(苦)がない、此(煩悩)が生ずれば彼(苦)が生じ、此(煩悩)が滅すれば彼(苦)が滅す

煩悩=欲 を知ること 足るを知り、欲を少なくする 「少欲知足」という教えだ。

 アメリカファーストいうが、そのアメリカ人は 食べていけないわけではない。あの成長しつづける欲深いアメリカを追い求めている。日本もそうだ。もう成長している。食べていけないわけではない。自分が必要な財を得ればいいのだ。今日本の資本は高齢層に集中している。「財を残すは下。されど財なくんば事業保ち難く。事業を残すは中。事業なくんば人育ち難し。人を残すは上なり」後藤新平の言葉だ。昔の日本人にはこういう考え方があった。麻生副大臣が大げさだが、高齢者は何歳まで生きたいのだ行ったが、財に固執するよりも未来に人に固執するのはいいのではないかと思う。少欲知足で人を残すは上なり。これからそんな生き方をしてきたいと思っている

 

人生の楽しみ

人間活動の再開

人生は楽しむためにある。そんな単純な こどもじみた いたって短絡的な 生きた方を選んだ。お金は十分に稼いだ。というか使っていない。恋愛、結婚、出産、子育て 住宅購入 子育て資金 ローン返済 小遣い性 僕には皆無なことだ。

 今までも自分のしたいように生き したいことを選び 生きてきた。でも何か楽しめないことが多かった。自分は何がしたかったのか 考えてみることにした。

幼少期の夢

想像するのが好きだった。超合金のおもちゃを持ってアニメの世界を想像し、近くの女の子の家ではキキララの家?だったか 家庭生活を想像していた。

 家のすぐそばの壁に野球のボールの投げて独りで試合をする想像をしていた。独遊びの名人だった。

ボーイスカウト

父がやりたかったと理由を後で聞いたが、小学校2年からボーイススカウトの下部組織カブスカウトに入る。小学校区以外の人と週末 キャンプにいったり ハイキングしたり 冬はスキーにいったりした。夏のキャンプは3泊4日あってこどもだけでテントに泊まり 自炊するのがきつかったけど、山好きやアウトドアが好きになったのはこの時間を過ごしたからかなと思う。

歴史に出会う

大仙公園にある堺市立図書館に兄と母と通っていた。母は兎に角本をよく借りて読んでいた。兄と僕は紙芝居であったり、録音したテープであったり 本はあまり好きではなかった。そこに漫画があることを知り 日本の歴史に出会う。ドラえもんあさりちゃんなどの漫画は小遣いの範囲でしか買うことができなかったけど。学習という名目のものは別会計だったような気がする。織田信長豊臣秀吉野口英世リンカーンなど自伝ものをよく読んだ。大河ドラマで初めてみたのは「黄金の日々」じいちゃんが見ているのをよくわからんとみていた。その後 徳川家康 女太閤記と両親が見ていたのをおもろないなーと見ていた。それが図書館で見ていた漫画であることに気付き 関連書物を読むようになる。独眼竜政宗武田信玄、ドラマと書物を平行して読み 歴史好きに

なっていった。

音楽に出会う

こどもの時は、沢田研二勝手にしやがれを真似したり ピンクレディを歌ったり だた 

歌詞を知りたいというのがありました。音はテレビから聞こえますが 歌詞がわからないから聞いた変な歌詞を歌ってました。巨人の星は 重いコンダラと思ってましたから。ある友人から明星と平凡の付録に歌詞があることを聞き 入院中のじいちゃんにねだったのを覚えています。それから兄が毎月歌謡曲という雑誌を買っているのを見せてもらってました。

 かっこいいなと思ったのはWhamとPOPディオ。マクセルのカセットテープのCMソングになっていて夕方のMTVを録画してみていた。MTVから色々な洋楽を知ることをなった。でもすぐWhamは解散してしまうんです。

 中学の時にサザンやユーミンとかおねちゃんのアルバムを録音したるわという流れで色々聞いたけど Whamほどはまる音楽はなかった。

バンド活動

高校になって尾崎豊にはまってしまった。音楽ではない。歌詞の世界観にだ。男子校、進学校 堺から大阪市内にいくことで これまでの地元の仲間から離れてしまった孤独感が 尾崎豊の世界観とリンクした。尾崎豊を弾くためにギターを買った。でも全然ひけずにいた。中学の友達が僕がギターを買ったことを聞きつける。何故かハードロックのバンドをやることになってしまう。WHITESNAKE やBONJOVIのコピーバンドをした。そのことにより孤独感から解放された。それと並行して尾崎豊を聴かなくなっていった。大学に入り バンドは解散した。大学の音楽サークルに入ったが、なじめず辞めてしまった。でもずっとギターを弾いていた。ギターが弾けるのは他の人との差別化できることだった。練習を重ねて以前ひくことができなかった難しい曲もひくとこができるようになった。自分の存在意義がギターをひくことだった。

音楽で食えたらいい

何でそんなことを思っていたか 考えてみる不思議だ。15歳くらいから5年間ほどそればかりやっていたので食えるかどうかよりも他人より差別化できるものがしたかったのだろう。そんな理由で音楽の仕事を目指すことになる。そして数年後現実となる。自分としてがサクセスストーリーを邁進していたのだろう。

何が楽しかったのだろう

これだ。というのはないが、何かを目標をもってやっているのが楽しかったような気がします。目標は想像する世界 そうこどもの時に独りで壁にボールあてて野球を想像していたように Whamのように音楽の世界観を想像し、尾崎豊になりきり、歴史の世界を夢みて まだ見ぬ自然世界を想像していたのだろう。

 これから想像する世界は何なんだろう。

 

 

 

 

 

空白の20160901~0930 ⑥

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阿蘇山へいこう

熊本から東に向かうと阿蘇山がある、中学の修学旅行で行った以来だったが、地震の影

響で入ることが出来なかった。そのまま東に向い竹田市の岡城に向かう。

「荒城の月」滝廉太郎の歌のモデルの城だ。

www.youtube.com

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天正14年(1586年)、先に耳川の戦いで敗れ衰退した大友氏を下すべく、薩摩の島津氏が豊後府内に迫る快進撃を見せていた中、岡城のみは志賀親次の指揮のもと再三にわたり島津軍を撃退し、親次はその功績から豊臣秀吉より天正15年正月3日付けの褒状を受けている。難航不落の山城であり、歌のイメージに合う静かな街のシンボルだ。

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九重連山を走る。高原の清々しい空気を楽しみながら この日の夜別府から船に乗って大阪に帰る。別府に早くついてしまい、Tさんに教えてもらった泥湯に入った。中は泥湯ではなく 泥池で混浴で若い女性も入っていてびっくりしてしまった。

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人間活動の再開

宇多田ヒカルが 歌手活動を中止するとき こんな言葉を使った。15歳から歌手をして人間として経験する色々なことができなかった。何のための人生か。生きることに楽しみを感じるないと意味がない。人生は重荷を背負っていきていかないといけない。本当に徳川家康がいったがわからないらしいですが、そんな人生は意味がない。自分が楽しくないと人を楽しくできない。だからミニストップで苦しんだ。自分は楽しむために仕事をしよう。そんなに稼がなくても生きていける。この5年間でできなかったことをやろう。そう考えた時、人間活動の再開という言葉がピンと来た。

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サンフラワーにのって帰ります。サー 人間活動の再開だ!

空白の20160901~0930 ⑤

薩摩の黒板五郎(北の国から

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薩摩川内の朝、Tさんの家に寄った。N夫妻や他の仲間への焼酎を持って帰るためだ。

関西人のTさんは、尼崎のライブハウスで今の奥さんと知り合う。奥さんが薩摩川内出身で奥さんとこどもたちと自然豊かなこの街に移ってきた。市内から少し山に入った東郷という町。川内川が流れて集落という感じだ。

 「つじいくん 一緒にきてくれへんか」

 車に乗り 近くのコメリで材料を買った。「夢工房」Tさんは、建築業を自分独りでやっていた。簡単ではなかったという。関西から来た人間なので中々なじめなかったという。しかし、一つ一つ 仕事をやっていく中で人間関係を築き 独立して仕事をするようになったという。

 「でもな 人間関係がしんどいときもあるで」

 町特有の議員さんとの関係、近所付き合い等。

 「自分でやっているから時間のコントロールもできる。仕事量を減らしたら収入減るしけど、食っていけるようになったからええねん。逆にな。仕事やりすぎると他の人の仕事を取ってしまうことになるから このへんが難しいねん」

 この発想に共感できた。コンビニビジネスは 奪い合いだ。市場の原理に任せて淘汰されていく。コンビニ自体も既存のスーパーや百貨店のシェアを奪ってきた。ただ、コンビニはフランチャイズという形態を取り、加盟するオーナーにリスクを負わせ、リスクを分散させる。店舗指導員が必要なのは、オーナーの監視係なのだ。その仕事に就いたとき あたりのキツイオーナーを担当した。4年程だ。深夜でも電話をかけてクレームをいれてくる。今考えれば、彼らは自分の不利な状況のフラストレーションをぶつけていたのだ。最前線の店舗指導員は それを受ける立場だったのだ。

優しい同僚Kさんの話

 ミニストップで仲の好かった60歳のKさん。見た目は強面で仕事をぜんぜんしないという噂で社内であっても挨拶する程度だった。きついオーナーを担当した後、5年前同じチームに異動してきた。噂を聞いていたのでそんなに話をするということはなかった。

 翌年、チームの長が変わり状況は一変し、管理を徹底するようになった。本部としてやることを徹底する。それ以外はない。仕事をぜんぜんしないKさんは、どうなるのだろう。他人ごとのように心配した。しかし、Kさんはうまくすり抜けた。逆に私に矛先がまわった。その後別の店舗指導員も同じことになり チーム内は疲弊していった。

加盟店を監視できない店舗指導員は 悪だ。「おめえのせいで売上が落ちているんだ。やる気がないならやめてくれ」そんな言葉を会議で皆がいるなかで言われたこともあった。

 半年ほど経った。累積の違反があり 免許停止になり 交通機関でも巡回になった。ある店は 山の上にあり 移動するだけで大変になった。言い訳はいけないが、17時半までに全店に電話をして発注数を上げる「2閉め」を強要された。アポが17時にあるので移動しながら電話をしていたのだ。佐川急便の違反が多いのは報道されたが、コンビニの仕事も違反が多いのだ。でも言い訳はいけないと思う。大変のな状況の中、山の上にある店が、文句を言いだした。無理に開発が契約を急いだこの加盟店は、運営能力がなかった。そういった加盟店を多く担当してきたチーム長は、辞めて欲しいとずっと言っていた。言い出した文句の内容が、契約違反に接触する内容であった。

 「辞めさせることができるチャンスだ。同じ考えでいてほしい」そう言われた。その加盟店は 人間的に好きな人であった。彼も自分の不利な立場を知り、文句をいっているだけだった。辞めさせるのはどうか ?私の正義は何か? 心が揺らぎ始めた。しかし、チーム長はやる気であった。

「ICレコーダーをつけてくれ。そしてつじいさんが言った言葉も細かく毎回報告してくれ」

 こころが切れた。僕も信用されていない。嫌そうだろう。僕は監視係が嫌なんだ。

「会社を辞めさせてください」電話で報告した。「やっぱりそうか お前はそんなやつだ。早くやめろよ」チーム長は叱責した。

40歳になっているのでここで辞めれば不利とはわかっていた。ただ、自分の正義に嘘をつけなかった。京都から電車で帰るところ、四条から京都駅まで歩いた。心が壊れそうだったから 歩いて落ち着かせようとしていた。

「おーわしや Kや  どこおんのや おくっていくよ」

七条あたりでKさんから電話が鳴った。恐らくチーム長が腹が立ってKさんに電話したのだろう。

「つじいちゃん。あんたのええところは 情が深いところや。わしは好きや。でもな 利用されんねん。利用されてしんどなんのんつじいちゃんやねん。この仕事は 利用されないようにうまく立ち回るんや。加盟店を助けたらあかんねん。でもな加盟店に嫌われたらあかんねん。難しいけどな。自分を守らないといかんねん。辞めるっていってないやろな。寂しいやんわし。あんたみたいはええ人 がんばっているひと やめたらあかん」

「やめるとか言ってないですよ。でもありがとうございます。Kさんの言っていること当たっていると思います」

電話を切った後、涙が出た。いざというときに助けてくれる人 いるんだ。Kさんは、仕事をしていないのではなく、うまく立ち回っていたんだ。出世はしないけど家族を守るためにバカを演じ、仕事してきたんだ。そして自分のことのように僕を心配してくれた。

少欲知足

5年前、中村敦夫 『簡素なる国』を読んでこの言葉を知った。
時代の閉塞感、いくら仕事をしても お金を稼いでも『幸福感がない』
果てには、身体と精神を病んで死んでしまう人もいる。
『簡素なる国』から抜粋
産業革命から始まった近代は、「無限の経済成長」という旗を掲げ、二〇世紀前半に爆発的な開花を見せました。しかしながら、その原理の致命的な欠陥ゆえに、その後急激な衰退の道を辿り、今や死の淵に追いつめられた。私はこの状況を、人類を閉じ込めている「四面の壁」と表現し、四つのテーマを取り上げて説明しました。...それにしても、この危機からどう説出するか?私の答えは「貪欲と競争」から「少欲知足」への価値観の転換、「グローバリズム」から「ローカリズム」への社会システムの転換です(「始業チャイム」より)。
老子」でも「足るを知る者は富む」とある。
コンビニエンスストアは、売上高を昨年より増やす為に出店を押し進める。
数メートル先にもあるにも関わらず競争の原理だから仕方がない。
貪欲と競争の果てには 勝ったものと負けたものができ、淘汰される。
ミニストップも上位チェーンとの貪欲と競争の果てに淘汰される可能性が高まってきた。
しかし、勝った上位チェーンも新たな貪欲と競争が始まり休むこともない。
足る すなわち 自分がどれだけ必要か知ること を自覚しないと どれだけ増えても満たされない。

フェリーで天草に

Tさんの家を後にして長島に行き、フェリーに乗り天草半島に渡った。中々行くことないと思い 遠回りしたのだ。

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自分が目指すのは

  5年前に退職を申し出たが、Kさんの優しい言葉で退職を留まった。「うまく立ち回ろう」そうやってなんとか過ごしてきた。3年後、経営に行き詰まった担当店が売上金をもって逃げた。その責任を負わされ半年間、その店の兼任店長になり、過重労働を強いられた。異動した福井県で直営化が進み、結果過重労働することになった。

 もううまく立ち回ることができなくなってきた。なんでそうなるのだ。やはり加盟店に不利な契約を続けるこのビジネスに無理があり、自分自身その事実に目を背けていい人を続けることができなくなっていた。

 利益を追い続けた先にあるのは、経営破たんしたオーナーであり、その穴埋めをする自分であった。この仕事を続けるには、監視役になり 加盟店がつぶれようとも本部の利益を守り、会社のやることを徹底させることだ。そう思った。

 「儲けすぎてはいけない そうすると 儲けれない人がでる」Tさんの言葉だ。亡くなった父が建設業界にいて 談合は必要と言っていた。そのとき同じことを言っていた。少欲知足でありたい。自分の目指すのはその生き方なんだ。

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熊本に着いた。昨日飲みすぎたこともあり ホテルに入り10時間ほど眠った。城は地震の影響で入ることができるところが少なかった。

 

空白の20160901~0930 ④

島津発症の地へ

 9月の志布志の朝は、何もなかった。駅に行っても人も少なく 別の世界に来たんだ。そう思った。

志布志城 シラス台地を活かした城にいった。今は学校になっていたが、山と山の間に集落が点在し、谷に道を通して難航不落を思わせた。たいして見るところもなかったので「伊作」へ行こう! 島津発症の地だ。

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鎌倉時代
源頼朝より薩摩・大隅・日向の守護職に補任された忠久は、日向の国 島津荘を領したことで島津姓を名乗る。

南北朝時代
鎌倉幕府の力が衰えて倒幕の機運が高まると、1333年(元弘3年、正慶2年)に5代・島津貞久が後醍醐天皇鎌倉幕府討幕運動に参加する。その後北朝についたり、南朝についたり、一族が分裂し分家が薩摩一国に分かれることになる。

室町時代末期
室町時代末期に入ると、領域内各地の国人や他の島津一族による闘争が加速化され、さらに薩摩大隅守護家は衰退する。やがてその島津一族の中から伊作家の伊作忠良と薩州家の島津実久が台頭して他家を圧倒した。

 

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島津 忠良(しまづ ただよし)日新斎(じっしんさい)の号で知られる。

伊作忠良ともいわれる。島津4兄弟の祖父当たる。

島津氏の分家・伊作家の出身。父・善久が明応3年(1494年)に馬丁に撲殺され、祖父・久逸も明応9年(1500年)、薩州家の内紛に関与し加世田で戦死したため、母・常盤が一時的に伊作家当主となる。忠良の母も女城主だったんです。

母常盤は、残された忠良に桂庵禅師を師とつけ、『朱子新註四書』や『論語』通じ、賢徳の聞こえが高い人間に育てる。また、忠良は禅を修め、神道の奥儀を究め、儒神仏の三教を融合して、新たに一流を開いた。

未亡人となった常盤は、南の相州家の当主と再婚し、まんまと忠良を相州、伊作の跡継ぎに仕立てた。

相州伊作の領主となった忠良は、島津本家に実子貴久を送り込んだ。この親子が北の薩州島津と争い、薩摩統一に動き出す。

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島津氏中興の祖は 教育に力を入れた
忠良は人間としての履み行うべき道を教え諭した『いろは歌』の創作でも有名だ。これは日学を広めるために、平易な歌謡によって、その精神をあらわそうとした試みで「いにしへの道を聞きても唱えへてもわが行いにせずばかひなし」に始まる歌であるが、この儒教的な心構えを基礎とした忠良の教育論は、孫の四兄弟・義久、義弘、歳久、家久にまで受け継がれることとなり、その後の薩摩独特の士風と文化の基盤を築いた。いろは歌は後の薩摩藩士の郷中教育の規範となり現代にも大きな影響を与えている。

西郷吉之助や大久保一蔵は、郷中教育、その村で近所の年上の者から町ぐるみの教育を受けた。

抜粋は以下 

武道が第一である。
武士道の本義を油断なく実践せよ
用事で咄(グループ)外の集まりに出ても、用が済めば早く帰れ、長居するな
何事も、グループ内でよく相談の上処理することが肝要である
仲間に無作法など申しかけず、古風を守れ
グループの誰であっても、他所に行って判らぬ点が出た場合には仲間とよく話し合い、落ち度の無いようにすべきである
嘘を言わない事は士道の本意である、その旨をよく守るべし
忠孝の道は大仰にするものではない。その旨心がけるべきであるが、必要なときには後れを取らぬことが武士の本質である
山坂を歩いて体を鍛えよ
髪型や、外見に凝ったりすることが二才(薩摩の若者)なのではない。万事に質実剛健、忠孝の道に背かないことが二才の第一である。この事は部外者には判らぬものである
これらはすべて厳重に守らなくてはならない。背けば二才と呼ぶ資格はなく、軍神にかけ、武運尽き果てることは疑いがない。

負けるな
弱いものいじめをするな
たとえ僅かでも女に接することも、これを口上にのぼらせることも一切許さない
金銭欲・利欲をもっとも卑しむべきこと 

永遠の0

伊作では、何もない山や寺に忠義の痕跡を発見できた。そのときLINE電話がなる。Tさんだ。「どこいるん そんなとこ なにがあんねん そやったら いっちゃんみなみな〇〇温泉 露天風呂で最高やで」

その一言で南にPCXを走らせた。知覧特攻平和会館。ここから多くの若者が特攻に散った。鹿児島にはそういった歴史もあった。

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開聞岳だ。日本百名山だ。

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Google マップ

↑ ヘルシー温泉玉手箱温泉の地図。海に向かって露天風呂が広がり、開聞岳が西にそびえて最高でした。

薩摩川内の夜 ~Tさんの言葉~

夕方18時に薩摩川内に到着。安い宿は 喫茶店の2階で鍵は ダイヤル式の古いものだった。Tさんは仕事が終わらないらしく、待つことになり 街をぷらぷらする。

商店街は開いている店も少ない。原発の町で敦賀の気比商店街を彷彿させた。Tさんにあったら会社を辞めることどう言おうかな?

19時になってTさんは現れた。そして抱擁したおっさん同士で。「いこ いつもの店で

ええか」「なんや顔まっくろやん」「どのバイクや けっこうでかいな」「ようはしるな」矢継ぎ早にしゃべり店まで私が言葉を発することはなかった。

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店では 鶏のさしみや さかな 九州の醤油は甘い 薩摩焼酎談義。Tさんは会社を辞める話をさせなかった。そして今Tさんが、数百万の仕事のトラブルを抱えていること、N夫婦の話 震災の話。苦労したこと 娘さんが、鹿児島のテレビにでていること

そして美人であること 残念ながら年の離れた男に持っていかれること 楽しく かなしく 怒って 笑って 私も酔いが深まった。そして旅に思ったことを吐露し始めた

ミニストップで起きた事件のこと、自分がつらかったこと 自分が加盟店に優しすぎるので自分を頼りしんどくなったこと レコード会社を辞めた理由 仕事の目的をうしなったこと Tさんか うんうんと聞いていた。ただ答えは言わなかった。

「つじいくん うたいこや おねーちゃんはおらんけど ええか おばはん ばっかりやで」 ひさびさにスナックいった。若い女のひとはいなかったが、常連さんと盛り上がる店だった。

「つじいくん 実はおれ酒飲まれへんねん。でもここきてのむようになってん。仕事でいろいろ あるけど 俺はな 自分が楽しむために ここにおんねん」

人生は楽しむためにある

「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。
勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人をせむるな。
及ばざるは過ぎたるよりまされり。」

徳川家康の遺言と伝わっている言葉です。自分の人生も周り道をして まよっています。負けることを知りそれを力とし先に進んでいかないといけません。ただ辛いしんどいと自分を責めてばかりでは ポジティブになれない自分がいました。

いい学校にいくため、お金をかせぐため 家族をやしなうため 借金をかえすため 人の役にたつため 理由をさがしていたけど 私はもともと自分が楽しみたいんだ。 ミニストップにいて楽しんでいないんだ。事件後2年間 辞めたらだめだと我慢していたが、自分を楽しもうそう思ったとき 辞めることを決断できた。

薩摩川内の夜は3時まで続いた。ありがとうTさん。

 

 

空白の20160901~0930 ③

島津義弘という漢

義弘という名が有名ですが、1585年まで忠平と名乗っていた。

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関ケ原で動かず、敵の向かって中央突破で退却した島津の退き口で有名だ。また65歳で朝鮮の役で鬼石曼子(オニシーマンズ)と恐れられる戦を繰り広げ 戦上手の武将のイメージがある。しかし知られていない戦がある

義弘が若い時、3000VS300の戦に勝利した木崎原の戦い(きざきばるのたたかい)だ。

このあまり知られていない古戦場に行きたかったのだ。

 

senjp.com

 

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私は早朝の霧島連山を抜けて えびの市に向かう。いざ木崎原に!!

薩摩一国を統一した島津氏は北の日向に次男義弘、南の大隅に三男歳久を配置した。日向には伊東氏が占拠。義弘が動かせる兵は300人が限度だった。義弘不在を知った伊東氏は3000人の兵で加久藤城を攻める。

隣の飯野城にいた義弘は数100騎で応援に向かい 50騎ずつ伏兵を配置する。城からの反撃を受けた伊東兵は混乱し 木崎原に逃げ込む。「釣り野伏」この戦法が伊東を壊滅に追い込む。わざと負け 追いかけた先に鉄砲隊が配置されているのだ。一斉射撃で壊滅する。また逃げ込んだ先にも伏兵が配置され死体の山ができる。3000人の伊東は1000人ほど討ち死にする。寡兵をもって大兵に勝つ「島津」の戦だ。

そんな大勝利の余韻を感じて私は南の内城 鹿児島を目指した。内城は島津本家の城であった。義弘の貴久が島津本家の養子に入り 島津統一が開始される。元々薩摩 大隅 日向の三州を領土としていたが、分家に分かれたことで領土を奪われる。分家の伊作島津家に日新斎忠義が生まれる。貴久の父であり、4兄弟の祖父である。日新斎忠義は、策をめぐらせ 本家に実子を養子に送り込む。しかし本家は、伊作家を裏切り北の薩州家と結ぶ。貴久時代にはまだ統一はなされず、その意志は4兄弟に引き継がれる。

内城から北に向かう道沿いには義弘が攻略した城が並んでいた。その城をたどりながら鹿児島に昼ごろに到着した。

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内城(鹿児島)の後ろに城山がある。西郷隆盛が討ち死にした山だ。そこから桜島がよく見えた。その風景を眺めているとLINE電話が鳴った。Tさんだ。「いまどこや えーもうついたんか かごしまとまんのか?ラーメンはまずいで。唯一いいのは〇〇や 明日はこれるのか うん ほな 待っているで」人とつながることが有難かった。

何故か 東に向かうことにした。Tさんの「桜島にはフェリーが便利やで」その一言で東に渡った。

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500円で15分くらいで渡ることができた。その先は火山灰のシラス台地が広がっていた。兎に角バイクで走ると街中がうんこくさい。田舎特有なのか 匂いになれるのが大変だった。どこかの風景ににているなーと。。 そう 北海道の台地 だだ広い高原。

一泊3500円のペンションを一人貸し切り。この庭を一人しめできた。地元のスーパーで黒豚のみぞ焼き など地元食材を堪能した。ペンションの窓を開ける涼しい風が入り込む。外を眺めると真っ暗な闇。虫の声が聞こえるだけ。つまらない民法の番組を消して風と虫の声と時間の緩やかさを堪能した。「こんなに時間はゆっくり流れるんや」

明日はTさんと会えるなー 「辻井くん 会社やめるんか」聞かれるやろなー

何もしない時間ができると考える悪いくせが出始めた。そして一人旅が 久しぶりなことに気付いた。2012年からN夫妻と一緒に旅行に行くようになった。Nさんを連れ出すことが目的だった。Nさんは同じ歴史好きで萩から長崎 高知に徳島 私の車で旅行してきた。自分がNさんを癒しているつもりであったが、自分が癒されていたことに気付いた。独りは寂しいな。誰かとしゃべりたいな。そんな気持ちがあふれ出た。誰かとつながっていることがどれだけ安心か実感できたのだ。明日は久々に人とごはんが食べることができるな。

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